1952年のロック
1952年は日本で民放ラジオの開局が相次ぎました。その影響により、人々が音楽に触れる機会が増えたであろうことは、想像に難くありません。
テレビの本放送開始が翌年ですから、まだラジオの影響力は絶大だったわけです。紅白歌合戦もラジオで放送していた時代です。
日本文化放送協会(文化放送)は開局したこの年に日本ビクターの「S盤アワー」という深夜番組を開始し、1969年までの約17年間、若者に最新の洋楽情報を紹介していました。
今回紹介する1952年のロックも紹介されたかもしれませんね。
1曲目はタイニー・ブラッドショウの「トレイン・ケプト・ア・ローリン」です。
この曲はスタンダードとして時代を下る毎に様々なアレンジでカバーされています。
例えば1956年のジョニー・バーネットとロックンロール・トリオによるロカビリー・ヴァージョン。
1965年のヤードバーズによるブルース・ロック・ヴァージョン。
1974年のエアロスミスによるハード・ロック・ヴァージョン。
そして、1980年のシーナ&ロケッツによるブルース・ロック・ヴァージョンを基にしたLEMON TEAという流れになります。
それぞれのバンドの代表曲となっているのが興味深いです。
1952年(正確には録音が1951年10月、発売が1951年12月)のヴァージョンはジャンプ・ブルースです。
ジャンプ・ブルースについては【https://y2jcwwe.hatenablog.com/entry/2018/09/29/顔を隠しても・・】を参照してください。
ロック史に名を残す名曲にありがちなのが、当時は不発に終わっている事です。ブラッドショウの経歴的には1951年まではヒット曲を出していたのですが、1952年以降の落ち目の時代に発表したのがこの名曲でした。その後、1958年に亡くなるまで活動を続けましたが、ヒット曲には恵まれませんでした。
しかし、彼の功績はこの名曲を世に産み落とした事だと言う事を忘れてはいけません。
2曲目の「ロウディ・ミス・クラウディ」は強力なドラムビートとロイド・プライスのシャウトが印象的な初期のロックンロール。
3曲目の「ブラックスミス・ブルース」と11曲目の「オーキー・ブギ」は1947年以降ヒット曲の無かったエラ・メエ・モーズが放った久々のヒット曲。どちらもジャンプ・ブルースですね。
7曲目は過去に紹介した「ロック・ザ・ジョインド」でビル・ヘイリーがサドルメン時代に発表した初期のロカビリー。
13曲目の「ビッグ・バグ・ブギー」は後にロカビリーに昇華するウエスタン・スウィングの代表曲。
19曲目は「ワン・ミント・ジュリップ」クローヴァーズが発表したドゥー・ワップのスタンダードです。アダルトチックな雰囲気が素晴らしいですね。
20曲目は「ジューク」リトル・ウォルターの大ヒットしたブルースです。彼がブルースで使用する楽器はギターでも、ピアノでもなく、ブルース・ハーモニカです。ローリング・ストーンズと共演もしています。
26曲目の「ファイヴ・ロング・イヤーズ」はエディ・ボイドによる孤高のシカゴ・ブルースです。
30曲目の「ア・フール・サッチ・アズ・アイ」はハンク・スノウのカントリーのスタンダード。エルヴィスのカバーが有名ですが、ディランのカバーもあります。
曲数の関係で全曲紹介は出来ないのですが、アルバムを通して当時の事情を少しでも垣間見て貰えたら嬉しいです。
1953年のハイライトはエルヴィスがカバーして、名実共に時代の寵児になった曲を中心に取り上げようと思います。
1951年のロック
今回は1951年のロックについてです。
1951年はロック史にとって重要な年でもあります。
リズム・アンド・ブルースがロックンロールに昇華したのです!
取り敢えず難しい話は抜きで、この年の代表曲を見てみましょう。
1曲目に注目して下さい。ROCKET 88は世界初のロックンロールレコードです。
ジャンプ・ブルースでも、リズム・アンド・ブルースでもなく、ロックンロールなんです。
ブルースで有名なチェス・レコードから発売されたこの曲はジャッキー・ブレンストンと彼のデルタ・キャッツ名義で出された曲ですが、実際はアイク・ターナーのバンド、キングス・オブ・リズムの変名でした。
この曲が従来の曲と異なるのは楽器隊の暴れ方が凄まじいのです。間奏部分ではブギウギピアノ、サックス、ドラムス、ベース、アイクのギターが同時に大音量で鳴り響いています。
今までの世界初のロックンロールレコードものは歌詞にROCKという単語が入っていたり、リズムがロックンロールのそれだったり、悪く言えば1点だけを取り出して認定していたような物でしたが、この曲に限って言えば、上記の2点はもちろん、その後のロックンロールの特徴をおおよそ捉えています。
ブルース・コード主体、ブギウギピアノ、ブラスリフ、ROCKET 88という単語、間奏のどつき合い、ギター締め、この曲こそ世界初のロックンロールの称号を与えるのに相応しい曲です。
2曲目と10曲目に収録したレス・ポールとメアリー・フォードは実の夫婦であり、50年代前半を代表するポップ・グループであると同時にレス・ポールのギターを前面に押し出したサウンドで大ヒット曲を連発しています。
レス・ポールはその名で気付いた人も多いと思いますが、ギブソン社のレス・ポール・モデルの元となった人・・というか、共同開発者であり、諸説ありますが、エレキ・ギターを発明したとも言われています。
5曲目に収録したのはフォールアウトでお馴染みのシックスティ・ミニッツ・マン。この曲の内容は「必ず60分間は楽しませてからイかせる」という破廉恥極まりない代物ですが、ジャズ・ボーカル・グループの時代から、リズム・アンド・ブルースを歌うドゥー・ワップ・グループの時代の始まりを告げる曲でもありました。
8曲目に収録したのはB.B.キングの代表曲であり、デビュー曲の「スリー・オクロック・ブルース」これはローウェル・フルソンのカバーでしたが、見事にB.B.キングの色に染まっています。
13曲目に収録したのは1953年に亡くなってしまうハンク・ウィリアムの「ヘイ・グッド・ルッキン」彼はホンキートンクを中心に歌っていましたが、黒人音楽を吸収し、カントリー・ブルースも歌っています。歴史に"もしも"は野暮と言うものですが彼がロックンロール時代にも生きていたら、どんな音楽を奏でていたのか興味があります。何せ、ロカビリーの原型を作ったのですから。
19曲目にはジョン・リー・フッカーの「アイム・イン・ザ・ムード」代表曲であり、大ヒット作です。50年代中盤頃ロックンロール黄金期にブルースは姿を消しますが、60年代に彼を含めたブルース・ミュージシャンをリスペクトする英国のミュージシャン達が敬意を示し、ブルース・ロックを生み出します。
名曲揃いの1951年でしたが、1952年には定番中の定番になったあの曲が登場します。
1950年のロック
暑い夏は何処へやら、すっかり過ごしやすくなった秋の月、皆様は如何お過ごしでしょうか。
今回からシリーズ企画として、各年のロック事情について記事を書いていこうと思います。
基本的には洋ロックを扱いますが、気分次第で邦ロックシリーズも始めるかもしれません。
シリーズの開始は1950年です。
1950年代ではなく、1950年のロックについてです。
とは言ってもイメージが付きにくいかと思いますので、1950年のロックアルバムを作ってみました。
CD1枚のサイズでまとめてみました。
1950年は、まだ白人と黒人の音楽がそれぞれの色を持っていた時代です。上のアルバムから読み取れるように白人はカントリーを、黒人はリズム・アンド・ブルースを奏でていたのです。
最初に相手にアプローチを掛けたのはカントリーサイドでした。カントリー・ブギ、ウエスタン・スウィングといった音楽は、カントリーミュージックにリズム・アンド・ブルースのエッセンスを加えて誕生し、当時若者の間で流行しました。
このような土台があり、次代のミュージシャンが自然とお互いの音楽をリスペクトした結果、生まれたのがロックンロールであり、ロックだったのです。
と、散々前時代的な音楽だと触れ込みましたが、聴いてみるとそうでもなく、むしろ新鮮な気持ちになるでしょう。
ちなみに上記のプレイリストで当時ビルボード上でヒットした曲は数える程度です。特にリズム・アンド・ブルースは卑猥で低俗であるものという"常識"がまかり通っており、ラジオで流されることも少なく、全国規模でヒットさせることは至難の業でした。
リフがお洒落で印象的な1はポピュラーソングとして大ヒットした曲です。シューシャインボーイとは靴磨きの事で、翌年には日本で暁テル子さんも「東京シューシャインボーイ」というレコードを発売しており、当時靴磨きという職業がまだ一般的であった事が窺えます。
2は所謂トレインソングの代表曲であり、蒸気機関車特有のシュッ、シュッ、という効果音もフィドルで再現されています。これまた翌年に日本で「僕は特急の機関士で」のレコードが発売されています。パクリとかでは無いのですが。
4は後にロックンロールを形作った一人に選ばれる事となるファッツ・ドミノのデビュー作。
12、17に収録しているマディ・ウォーターズはエレクトリック・ブルースの第一人者であり、ローリング・ストーンズは彼の代表曲からバンド名を拝借しています。
直接紹介した以外にも巨匠たちが名を連ねています。上記に4人を挙げた理由は比較してもらうためです。
カントリーのメロディーとリズム・アンド・ブルースのリズムがロックンロールを形作ったと理解してもらえるかと思います。
次回、1951年はそれを体現した楽曲が現れます。リズム・アンド・ブルースがロックンロールに昇華した例の曲を中心に紹介しますので、よろしくお願いします。
顔を隠しても・・
一般的にロックンロールが成立したのは1951年のRocket 88
一般的にロックンロールが認知されたのは1955年にビルボード首位を獲得したRock Around The Clock
一般的にロックンロールが社会現象を巻き起こしたのが1956年のHeartbreak Hotel
一般的にロックンロール時代が終焉したと言われているのが1959年の音楽が死んだ日
ロックンロールは1950年代を華麗に駆け抜けて行きました。
1951年から1959年のアメリカはロックンロールというダンスミュージックと共にあったのです。
しかし1940年代中盤、ロックンロールの兄ともいうべき音楽がちょっとしたブームを巻き起こしていました。
ジャンプ・ブルースです。
ジャンプ・ブルースはロックンロールと同様の特徴を持っており、スウィングとブルースを合わせたようなアップテンポなブルースの事を指します。
実は東京ブギウギもジャンプ・ブルースでは?と筆者は勝手に思ったりしてます。
そんなジャンプ・ブルースの第一人者が黒人のルイ・ジョーダンです。
彼はアーカンソー州に生まれ30年代にサックス奏者としてチック・ウェブ楽団で活躍しました。1944年にはジョニー・マーサー(フォールアウトのラジオで名前を聞いたことのある人はいるかも)のG.I.ジャイブをカバーしてヒットさせました。
ジョニー・マーサー盤はジャズの影響が強いですが、ルイ・ジョーダン盤はブルースの影響が強いです。
ルイ・ジョーダンはジャズにブルースのエッセンスを加え独自の音楽を編み出したのです。
1945年のカルドニア(Caldonia)
1946年のレット・ザ・グッドタイムス・ロール
1949年のサタデー・ナイト・フィッシュ・フライ
・・・これって、もうロックンロールですよね。
ルイ・ジョーダンはロックンロールの歴史を語るときに欠けがちな重要人物の一人です。かくいう筆者も存在すら知らず、先に曲だけを聞き50年代に活躍した人物だと思い込んでおりました。
40年代には彼の他にもジャンプ・ブルースのアーティストが多数いました。しかし、彼を筆頭として50年代にも活躍したと言える人物は少なかったのです。
ルイ・プリマをご存知でしょうか?
彼は白人ビッグバンドを率いており、King Of Swingとして知られています。彼も音楽的には黒っぽい物を持っており、40年代にはジャンプ・ブルースを演奏していました。
1956年のロックンロール黄金期に投入されたジャンプ・ブルースの名作です。
Jump,Jive an' Well - Louis Prima
どうでしょうか。ロックンロールとジャンプ・ブルースの関係が良く分かる曲だと思います。
今回はジャンプ・ブルースについて語ってみました。次回からは単年ごとのロックについて語ってみたいと思います。それでは。
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80年代のロック
単刀直入に言いますと、私は80年代のロックが嫌いです。
「偏見?」
いいえ、私は80年代のロックが大嫌いです。
「80年代にはARBやMODS、スライダースと素晴らしいバンドが居たじゃないか!」
いいえ、彼らは70年代、90年代のロックをやっていました。80年代のロックではありません。
少年ナイフもユニコーンもボ・ガンボスも大好きです。むしろ贔屓してます。
「80年代のロックってなに?」
定義は難しいですが、私がむず痒く感じるバンドの特徴を並べてみます。
・ドラムに過度のエフェクトあり
・バブリーで中身のない歌詞
・やたらと踊る楽器隊
・ポップとロックの狭間(中途半端)な音
・英語を使おうとして失敗
以上です。
チェッカーズは上記に当てはまらないですが、C-C-Bなんかは当てはまりますよね。
数個当てはまるんですよね。
ただこの2バンドは元々がブレイク時とは違う音楽を趣向していました。
ある時期は好きだけど、ある時期はむず痒いという感じです。
変化と言えばサザンオールスターズです。
彼らは時代に合わせて全く別の顔を見せています。その話は別の機会にしまして、80年代のサザンはニューウェーブに傾倒していました。
しかし、踊らないし、歌詞も凝ってるし、ロックな時はロック、ポップな時はポップに振り切っていましたし。
中途半端な事はしていませんでした。80年代のロックとしてバカにされるのは中途半端なロックです。そういう意味ではC-C-BもC-C-Bでバブリーに振り切っていたのかも。
そんなC-C-Bの曲を紹介します。
むず痒いですけど。
「不自然な君が好き」C-C-B
ビル・ヘイリーと彼のコメッツ
ロックンロールが世間に認知されたのは1955年7月9日にビルボードチャートで首位を獲得した「Rock Around The Clock」による功績が真っ先に挙げられます。
この曲は前年の1954年5月15日にリリースされた曲で、ソニー・デイと彼のナイツとの共作(こちらは同年の3月に発売でこちらがオリジナル)でした。
ビル・ヘイリーは1940年代にカントリーバンドのギタリストとして、数々のバンドを渡り歩きます。
1948年には自身がリーダーとなるバンド「ビル・ヘイリーとフォーエイセス」を結成。数枚のレコード(いずれもカントリー・ミュージック)を出すもののヒットせず。売れないバンドとしてレコード会社を転々とします。
1950年にはバンド名を「サドルメン」に変更し、ロックンロールの初期作品「Rocket 88」を含むRhythm and Bluesを録音します。
その中でも1952年にリリースされた「Rock The Joint」のソロは「Rock Around The Clock」のソロと殆ど同じ(おそらく後者が引用)ということで、物議を醸します。
似ている曲は他にもあり、特に有名なのがホンキートンクの大物ハンク・ウィリアムスの代表曲「Move It On Over」です。この曲はロカビリーの初期作品とも言われています。
奇妙なのはハンク・ウィリアムス死の翌年に「Rock Around The Clock」がリリースされていることです。仮にハンクが生きていた場合、ロックンロール黄金時代は1年遅かったか、1年早かったかもしれません。
1952年にサドルメンはコメッツと名を変えます。そして、翌年。ロックンロール史上初の白人ヒットが生まれます。「Crazy Man Crazy」が全米チャートで12位を記録します。
あれ?と思いました?
「Rock Around The Clock」は世界初のロックンロールのヒット曲ではないんです。
しかも、コメッツ自身が世界初のロックンロールのヒット曲を持っていたのです。
1954年には代表曲の「Shake,Rattle And Roll」(ジョー・ターナーのカバー)をヒットさせていますが、実はこの曲・・・コメッツのシングルとしては「Rock Around The Clock」より後に出された曲です。
事を説明すると、当初「Rock Around The Clock」は売れなかったんです。全くとは言いませんが、コメッツでは他の曲の方が売れていました。
では何故「Rock Around The Clock」は世界にロックンロールの大ブームを巻き起こした源流として崇められているのか。
それは、音楽史上初めてビルボードチャートの首位を射止めたロックンロール・レコードだったからです。
若者向けの映画「暴力教室」で使用された事で若い世代の圧倒的な指示が生まれヒットに結びついた形は、ヒットチャートが前時代的な健全な音楽の時代から、ロックンロールを始めとする若者向け音楽の時代へ移り変わる時代の象徴となりました。
皮肉なことにビル・ヘイリー自身は若者のアイコンとはなり得ませんでした。
キューピーヘアーにおじさんスーツ。暴力教室から入った若者は実物のビルを見て、ダサいと思ったのかはさておき。同時期に反抗的なイメージがあったエルヴィス・プレスリーがブレイクした事により、この曲以上のヒット作を生み出すことも出来ず、1957年頃から一線から退きました。
しかし、彼こそがロックンロールの可能性を世間に説いた初めての人物である事に変わりはありません。
「Rock Around The Clock」
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ノスタルジー
理由はわからないけど、心が締め付けられる音楽ってないですか?
私の場合は大瀧詠一さんの「LONG VACATION」以後のソロ楽曲に、それを感じます。
メッセージに惹かれるというよりも、楽曲に惹かれるんですよね。
60年代のウォール・オブ・サウンドを忠実に再現した音はノスタルジーに溢れています。
それは決して、その時代を経験しているから感じるものではなく、誰もが青春時代に感じる甘酸っぱさをシュミレーションしているノスタルジーだからです。
さて、先に誰もが感じると書いていますが、誰もが想像できると書き換えた方がいいかもしれません。
大瀧サウンドは、SNS時代の私たちには、もう経験出来ない甘酸っぱさで溢れているのでないでしょうか。小説の中でしか味わえない物語を表現した音楽に心がむず痒くなるんです。
それはファンタジーであり、ノスタルジックであり、リアリスティックな青春なのです。
はつぴいえんどを脱退した大瀧詠一さんは、70年代をCM音楽の作曲家、作詞家として過ごします。3枚のアルバム(いずれも名盤)を発表するもののオリコン最高位は41位と不発。76年にナイアガラトライアングルを結成し、アルバムを発表しますが、それも中ヒット止まり。
「夢で逢えたら」「福生ストラット」「ナイアガラ音頭」などの名曲を作り出すものの、大瀧詠一さんにとって、70年代は不遇の時代でした。
80年代に入り、それまでの作風からオールディーズ成分を抜き出し製作したのが「A LONG VACATION」でした。
世間ではシャネルズ(現ラッツ&スター)や横浜銀蝿が若者たちに人気を博しており、ドゥーワップ、ロカビリーが再熱している時期でした。
世界的にはジョン・レノン死去によるオールディーズブームが起きていました。
そんな時期にリリースされたアルバムはオリコン最高位2位と空前の大ヒット。このアルバムをきっかけに日本でもオールディーズブームが巻き起こりました。
特にチェッカーズはオールディーズ的な音楽で80年代中盤に、日本でトップアイドルの座を手に入れました。
また80年代にも作曲家として、松田聖子「風立ちぬ」太田裕美「さらばシベリア鉄道」森進一「冬のリヴィエラ」と、ジャンルを超えて音楽を提供しています。
それら全てに共通するのは先で説明したノスタルジーです。1997年の「幸せな結末」は、そんなノスタルジーの終着点だと、私は考えています。
大瀧詠一「幸せな結末」